映画「おとうと」と共依存(きょういぞん)

 先日、カミさんと映画を見た。夫婦のどちらかが55歳以上だと二人2000円で見ることができる。私は数年前その資格を得ている。

見たのは、

松竹映画「おとうと」。

山田洋次監督の最新作で、現代劇としては、10年ぶりの作品だ。

監督:山田洋次、脚本:山田洋次、平松恵美子
出演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮
公式サイトはここ。
http://www.ototo-movie.jp

 氏の作品に共通していることだが、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを、ユーモアとペーソスに溢れた上級の人間ドラマに仕立て上げている。何よりも「おとうと」鉄郎役の笑福亭鶴瓶がいい。ふしだらで、どうしようもないのだけど、憎めない男を好演していた。また、その姉・吟子役の吉永小百合も実に良い。慈愛に満ちた「日本の母」を見事に演じている。

 立派な兄、しっかり者の姉、放蕩者の弟。母に亡き後、「今度こそは」と約束する端から次々と問題を起こし、不始末をその都度尻ぬぐいしてきた。その吟子と鉄郎との姿を「家族の絆」として、温かく肯定的に描いている。公開してからほぼ1ヶ月経っていたが、座席はほぼ埋まっていた。観客の大多数は、私と同じ団塊かそれより上の世代だ。
 鉄郎は大阪で倒れ、民間のホスピスで吟子達に看取られながら最期の時を迎える。その見寄のない人々を受け容れ、最期を看取る民間ホスピスで働く人たちの様子もそれとなく描いている。

 笑い、涙、感動のある名品だと思うが、劇場が明るくなってから、何か心に違和感を感じた。


 「家族の絆」 なんて美しい言葉なんだろう。しかし、この名の下に、家族(多くの場合はその母)に犠牲が強いられ過ぎていないだろうか。
 確かに心情的には切っても切れないだろう。しかし、自己を(ときにはその子をも)犠牲にしてまでも、家族を助けなければいけないのだろうか。この映画はそれを美化し(暗に強いて)ているような気がしてならないのだ。

 女を騙し金を巻き上げ、その尻ぬぐいをさせたり、子(主人公からすると姪)の結婚式へ押しかけ泥酔して混乱させる。かなりの年齢になってから、性格行動は変わらないし変えられるものではない。不適切な表現ではあるが、この作品の中で主人公は「亡くなった」から良かったものの、生きていたらこれが延々と繰り返されるのだ。自分の築き上げた財産や、人脈が崩れてしまうのも我慢しなければならないだろうか。

 何よりも、吟子がせっせと世話を焼き尻ぬぐいをしていくことが、果たして鉄郎のためになっているのだろうか。

 良かれと思い相手のためにせっせと尽くすことが、却って相手をスポイルし、自分の無意識下でそのようにして相手をコントロールすることに喜びを感じる。それは共に滅びるまで続く。これを共依存(きょういぞん)という。鉄郎と吟子の関係は、「共依存」とみることはできないだろうか。


苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛 信田さよ子・著 朝日新聞出版・刊 1,600+TAX円
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 アルコール依存症、引きこもり、家庭内暴力、DVの家庭に比較的頻繁に見られる家族関係の病理「共依存」についての解説書。

 我々は一人では生きていけない。互いに依存し助け合い、家庭、地域、社会を形成し生きている。
 依存は決して悪いことではない。しかし、それに「強制」「支配」が伴い、関係に非対称性が形成されたとき、牙をむく。

キーワードは
イネーブラー アディクション 嗜癖 ふりまわし ドミナント 非対称性 アルコール依存症の家族

受け手は、心理的な脅迫、脅かしによってケアを要求するが、どれだけ供給しても、ケアの本来の目的は決して実現しない。受け手の、更にケアを引きだすための要求・行動はエスカレートするばかりとなり、ケアする側の意図とは悲劇的なまでに食い違い、相反するものになっていく。そして、ケア者の失意と絶望は限界までに達する。そこSOSを発すれば、第三者の介入があり被援助の機会を得ることになる。
 限界を感じず、SOSを発しなければ、共依存の泥沼へとはまり込み底なし沼へと沈み込んでいく。
 このように解釈すると、ケア者は一方的な被害者なのだが、ケアの供給者の側から分析すると、支援を与えることにより、支援なしでは生活できない状況に追い込み、支配する関係に陥っている。意識下の心理なのて、自分では気づいていないが、ケアすることで、周囲からの賞賛、「健気な私」という気持ちを充足させている。
 援助者(本当は援助者でなく支配者なのだが)が援助をすればするほど、受け手は自分でなす力、意欲がそがれ無力化し、ますます援助者を頼るようになる。つまり、良かれと思い「純粋の善意で」為すことが、自分にも相手にも役立たないどころが害にさえなる。これが共依存だ。
 薬物依存、引きこもり、不登校、家庭内暴力等の家庭にはしばしば見られる家族関係の病理なのだ。

 では、どうしたらよいのだろうか。支援者(実は加害者でもあるのだが)が気づき行動を起こさぬ限り無理なのだが、良い人、健気な人、立派な人との評価を否定されることになるので、当人が受け入れるには非常な困難が伴う。

 このような人はどうしたら現実に目覚めるのだろうか、そして、実際に行動できるようにするためには、誰がとのように支援をしたらよいのだろうか。
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by taketombow | 2010-03-07 18:49 | 私の本棚から  

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