教育不信と教育依存の時代

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価格:¥ 1,575(税込)
広田 照幸 著
ISBN:4314009802 紀伊国屋書店 刊
定価 1,575(1500+TAX)円

興味深いタイトルなので、つい手に取った。著者は東大大学院の教授。教育社会学が専攻。
まず、題名に共感、「うん、そうだそうだ」と頷いてしまう。

 今ほど、教育、教育システム、学校、教員、教育基本法・・・等々を「だめだ、だめだ」の大合唱で包囲し批判している時代はあっただろうか。

そんなにだめなら、違うシステムを作ればいい。学校教育に依存しなければよい。なのに、それもしない。ただ批判し過大な要求をするだけ。挨拶をしないのも、食べ物に好き嫌いがあるのも、生活のリズムが狂っているのも、中学生がたばこを吸うのも、箸が上手に使えないのも学校が悪い。

 「もっと、道徳教育の充実を」

ごもっともだ。家庭でできないのなら学校教育が担うしかない。しかし、本当にそれで良いのだろうか。また、やってもなかなか目に見える効果がでないのはご承知の通りだ。
 でも、考えて欲しい。個人の倫理観まで学校教育で教え込み、それが非常に効果的だったとしたら、それこそ、恐ろしい社会になりはしないだろうか。
 教育は、それををコントロールする為政者の思うままになる。一昔前、全体主義国家の一部は、幼児期から国家が子どもたちを教育した。そして、子が親を密告したりする事例が有ったという。文化大革命の頃隣の国では盛んにそれが行われたことは、記憶に新しい。今でも、日本人の拉致で問題となったあの国などは、そうなのかも知れない。
 今のままの教育制度ががベストとは思わない。しかし、倫理観、道徳観は親が自分の行動を通して教えたいものだ。
 国家の役割は、その積極的なサポートに徹するべきだとだと思う。

本書の内容の抜粋(私なりの理解で)は次の通りだ。

まず、現状認識から疑問を呈している。
メディアの言う「教育の荒廃」は真実かという点だ。
殺人の年齢別構成比、年齢別窃盗犯検挙数、粗暴犯検挙数のどれをとっても、数は減っている。その殆どは減ってきている。ことに粗暴犯などは、1960年代の4割弱になっている。つまり、最近の「学校の荒れ」は、青少年の問題というよりも、極端な事例や深刻な事例がマスコミでクローズアップして取り上げられる時代になったことの結果だという。
 報道されるほど荒廃しているわけではない。しかし、それらの極端な事例を取り上げ、現状を批判し対応を要求する。それらを教育界が受け容れることにより、学校、児童生徒、社会それぞれが身動き出来ない状態になっている。

最近の教育批判は自分のもっている理想と比較して批判している。理想と比べればどのような現実でも批判の対象としてしか見えない。また一方では教育への過度な依存がある。
教育批判に対する現代特有の3つの問題
・教育の量的な不足から別の問題(時には全否定)への変質
・政治的構図の不明確化
 ポジティブな部分を評価する勢力がなくなり、「袋叩き状態」になった。
・「ミクロ的な問題」の専門家が増え、批判構図に影響を
我々が為すべきこと
・「教育で成し得ること」の不完全性を了解する。
・「教育をよくする」とは<理想=善>と<現実=悪>との戦いにしない。
・「リアルで等身大の教育像」から出発し過度な不信と依存を振り払い考えていく必要がある。

 この本の論理展開は、同じ著者の「日本人のしつけは衰退したか」(講談社現代新書)と同じだ。しかし、日常的に子どもたちと接している関係者で、子どもや保護者の変化、家庭や地域の教育力の低下を実感し危機意識を持たない人は極めて少数だろう。それらの人へのデータと実感とのずれへの説得力には、やや物足りない面がある。また、「家庭」が従来の教育機能を持たない事例が増え始めてきている今、学校が「過度な依存」を振り払うことは現実問題としてできるのかという懸念が残る。

ぜひ、ご自分で読まれると良い。
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by taketombow | 2005-08-29 21:50 | 私の本棚から  

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