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「貧困」と「格差」を考える その2

何処かの国の首相が、「とてつもない国」という本を書いている(難しい漢字でも特にルビが振ってあるわけではない)が、私たちの国は、いつの間にか、子ども達にとって「とんでもない国」になってしまっているのかも知れない。
 そんなことを感じながら、「貧困」と「格差」について、再び読み解いてみた。


子どもの貧困―日本の不公平を考える 阿部彩・著 岩波書店・刊 780+TAX円

「貧困」問題を「子ども」を中心にした視点で論ずる。
 貧困の指標としては、「相対的貧困」と「絶対的貧困」とが用いられる。そして絶対的貧困は主としてアフリカなどの後進国、相対的貧困は先進国で問題となる。本書で論ぜられているのは相対的貧困だ。OECDの最近の調査によると、我が国の貧困率はアメリカに次いで世界第2位だという。アメリカをお手本とした「構造改革」、「規制緩和」、「自己責任」という「小泉改革」で私たちが目指しそして得たものは、世界第2位の貧困率だった。
貧困の定義については、本書の第2章で述べられているOECDの定義をそのまま用い、手取りの世帯収入の中央値の50%のラインを「貧困」としている。貧困率はそれが全世帯に占める割合である。つまり、我が国は、世界で2番目に「貧困世帯」の占める割合が多い、富の偏在した国家だということだ。
 貧困はそれが子どもたちの現在だけでなく、将来をも規定する。すなわち、「貧困」の環境にある子ども達は「そうでない」子どもに較べ不利な立場にある。著者はこの事実を豊富なデータを示しながら実証的に説いていく。まず、進学就職に直結する「学力」、人格形成に影響する「子育て環境」、「健康」、「非行」、「虐待」「疎外感」等々と「貧困」とどのように相関関係にあるのかを、PISAの調査、苅谷剛彦氏の著書「階層化日本と教育危機」からの引用で説明している。
 興味深いのは、貧困対策として、生活保護、児童手当、扶養控除、就学援助等の施策がなされ、「富める階層」から「子育て階層」への所得移転がされ、ある程度は平準化されているはずなのだが、現実には所得移転の施策前と後では、後の方が「子育て階層」の貧困度が増しているということだ。
 著者の問いかける点は二つ。
・子どもの基本的な成長にかかわる医療、基本的衣食住、少なくとも義務教育、そしてほぼ普遍的になった高校教育(生活)のアクセスを、全ての子どもが享受すべきである。
・たとえ「完全な平等」を達成することが不可能だとしても、それを「いたしかたがない」と許容するのではなく、少しでも、僧でなくなる方向に向かうように努力する社会の姿勢が必要である。

 このような論には何時も「財源がない」との主張がある。しかし、優先度、必要度を論じ先の日本を見据えて何とか解決策を見いだしていくのが政治家の仕事だった筈だ。先が読めない、夢を語れない政治家は、その資格はない。


新・学歴社会がはじまる―分断される子どもたち 尾木直樹・著 青灯社・刊 1,800+TAX円

要は苅谷剛彦、福地誠、山田昌弘氏らの主張と同じ。
 学力格差が広がっていること、そしてそれが子どもの工夫や努力ではどうしようもない、家計や出自の違いによることが多いこと等が述べられている。
 自己責任、公正な競争社会と言われながら、生まれながらの格差によって、「公正な競争」のスタートラインにさえ立つことができない子どもたちが生まれつつあることに警鐘を鳴らす。
 富裕層は公立校から離脱し私立国立有名校へと進学し、公立校の荒廃に拍車をかける。学校選択制、公立一貫校の設置により、富裕層まで行かなくても、多少の経済的負担と目先の利く感覚を持った親は、僅かな負担増だけで「よりまし」な公立へと進学できる。
 家庭・地域社会の様々な困難を背負って地域校で学ぶ子ども達と、私立国立付属校や公立一貫校の子ども達とは、既にこの時点で差が出ているのだ。そしてそれは、数年後の学歴の差として表れ、就職就業の際の差となって現れる、生涯賃金の格差となる。それが、著者の言う「新・学歴社会」の始まりなのだ。
 本書ではその他に、素人によるピントのはずれた学力低下論争による学力格差の増大。不景気の度に起こる学力低下論争の背景など述べられており、それなりに興味深い。
 苅谷剛彦氏の述べる格差拡大の要因について、著者は批判的である。この部分だけは同意できない。また、家庭の経済状況と親子関係について、著者にはステレオタイプな傾向がある点もやや気に掛かる。


ルポ 貧困大国アメリカ 堤未果・著 岩波書店・刊 700+TAX円

 食料が足りず皆がお腹を空かしているとき、誰もが同じでどこにも食べるものがないなら、諦め我慢するしかない。これが後進国型の貧困(絶対的貧困)だ。
 高級レストランで柔らかいビーフステーキを腹一杯食べた後、食べ残しをペットにやろうとしたら、ペットさえも見向きもしない。その建物の外では、ホームレスが寒さに震えて、物乞いをしている。これが先進国型の貧困(相対的貧困)だ。

 我が国が「自己責任」「規制緩和」「競争原理」「自助努力」の導入によってお手本にしようとしているアメリカのもう一つの顔は「世界一の貧困大国」である。全世帯数の中に貧困世帯の占める割合が最も高い国。そして2位は我が国である。
 リーマンブラザーズの倒産によって顕在化し、瞬く間に世界中を不景気の真っ直中に突き落とした「サブプライムローン問題」は、アメリカの貧困層を更に下位層へと突き落とし、世界の投資家から巨額の資金を霧散させたマネーゲームの結末だったのだ。
 本書は、ヒスパニック系の貧困層に高利で住宅ローンを貸し付けたり、カードローンの支払いや、大学の学費ローンの支払いのために、兵役に就く大学生をスカウトする軍のリクルーターなどの貧困ビジネス。一度の入院で多額の借金を背負い込んでしまう医療制度、入院費の負担を軽減するための日帰り出産等低所得者層の置かれたの現状をレポートし、極端な民営化の果てに二極化が進んだアメリカの姿を浮き彫りにしている。
 これは決して他の国のことではない。明日の我が国のことなのだ。私たちは、このような未来を望む投票行動をしているのだ。


貧困の現場 東海林智・著 毎日新聞社・刊  1,500+TAX円

秋葉原無差別殺人事件が起きたとき、一部に派遣労働者の置かれた生活環境をその一因と見なす論調があった。
 しかし、それは「どんなことも無差別殺人を正当化できる理由にはなり得ない」という”正論”に押し流されるように消えていった。
 それら”正論”を述べた人たちの中でどれだけの人が、彼らの生活実態を熟知した上で批判論を展開していたのだろうか。
 本書は、彼ら派遣労働者を始め、ファーストフード、コンビニエンスストアの正社員店長等の名ばかり管理職、ホームレス、ネットカフェ難民達の生活に密着し聞き取ったドキュメントだ。
 「自己責任」社会と言いながら今の社会は自己で責任を取れるまでにさえもいかない社会なのだ。「就職氷河期」に卒業したばかりに、正規労働に就けず、自己啓発の機会もないまま派遣労働からホームレス生活に転落していく若者たち。「転落」したらまず這い上がることができない「すべり台社会」
 彼らの実情も知らず(知ろうともせず)に、軽々と批判し「自己責任」を論じてはいけないのだ。「明日は我が身」かも知れない時代に私たちは生きている。



教育と所得格差 インドネシアにおける貧困削減に向けて 本台進/新谷正彦・著 日本評論社・刊 6,200+TAX円

一昔、大学教育は、一握りの秀才か金持ちの子弟にだけに許されたものだった。そしてその多くはエリートとして、出世の階段を上っていった。努力して高等教育を受けさえすれば、将来が約束されたのだ。山田昌弘氏は自著「希望格差社会」の中でそれを「教育のパイプライン」と称した。しかし、それが旨く機能したのは、高度成長時代からバブル前までだった。大学をはじめとする高等教育が(一部では大学院の修士課程や博士課程さえも)大衆化するに従い、教育が必ずしも将来の地位、収入を約束するものではなくなってきている。しかし、教育(学歴)が無ければ現実は更に惨めだ。
 そのような我が国と較べ、農業国であり、絶対的貧困率の高いインドネシアはどうであろうか、貧困撲滅に「教育」はどのように機能するかを調べたのが本書だ。
結論は予想通り。
丁度、我が国で言えば、高度成長期以前という状況だ。
貧困の原因が、農村における労働力の過剰なので、農村においては、教育の経済効果は極めて低い。教育が農業の生産性を高めるために寄与する部分が少ないからだ。農家の子弟を教育し、都会の製造業やサービス業へ供給するのが有効なのだそうだが、そうすると、最後は日本の農業が辿ってきた道をインドネシアも辿ることになるのか?

※ このエントリーは書きかけ。当分の間、追記・修正があります。

「貧困」と「格差」に関連して今、机上にある本。(12月23日現在)

教育の3C時代―イギリスに学ぶ教養・キャリア・シティズンシップ教育 杉本厚夫/高乗秀明/水山光春・著 世界思想社・刊 2,000+TAX円
学力と階層 教育の綻びをどう修正するか 苅谷剛彦・著 朝日新聞出版・刊 1,800+TAX円

by taketombow | 2008-12-23 23:25 | 私の本棚から  

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