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多分、穴埋めのニュースだとおもうが・・・「性犯罪者にGPS」 

今朝の中日新聞に次のニュースが載っていた。

他紙はもちろんのこと、どのTVラジオでも報じていないので、空いた紙面の穴埋め用のニュースだと思う。特に新しい動きがあった訳ではないだろう。自民党の動きは5月にあったものだ。法務省は否定していないので「検討している」と言う点では、勿論ガセではない。

私は悲惨な性犯罪の被害者を無くすという文脈からこの動きに反対ではない。しかし、費用対効果、人権対効果の点で疑義をもっている。

1.再犯率の点では、単純窃盗、粗暴犯の方が圧倒的に高いと思われるが、それらを放置しこれのみに焦点を当てるのはなぜか。
2.性犯罪は嗜好的、病的な側面をもっているので、再発防止のためには矯正教育、精神的治療が効果を持つと思われる。これらを十分やっもなお再犯率が高いのか。
3.性犯罪の加害者で圧倒的に多いのは、同居している親族(実父、実兄、義父、義兄等)、近しい親戚、知人であり、次いで多いのが子どもたちと接することの多い、学校や施設の教職員、警察官等である。これらに対する視点が抜けていないか。

性犯罪者にGPS 出所時同意で装着、法務省検討
2008年12月28日 朝刊

 法務省は、性犯罪受刑者が出所した後の居場所を把握するため、衛星利用測位システム(GPS)端末を同意の上で装着させることを検討している。GPSを活用した犯罪の再発防止策が欧米などで広がっていることを背景に、日本でも実施の可能性が出てきた。
 出所者の同意を得るとはいえ、GPSを使った防止策は人権やプライバシー侵害として反対の声は根強く、議論を呼びそうだ。
 日本では、2004年に奈良市で発生した小1女児誘拐殺人事件を機に性犯罪者対策を強化。法務省は翌年6月から、13歳未満に対する性犯罪受刑者の出所予定日や居住予定地などの情報を、警察庁に提供するようになった。
 各警察署が所在を確認するものの、行方が分からなくなるケースもあった。
 法制審議会の部会などで問題提起され、今年4月にGPS活用の検討を自民党の特別委員会が提言した。
 英国や米国では、性犯罪の前歴のある人の住所や顔写真などを提供。米フロリダ州では拘禁刑終了後も生涯、GPS端末装着を義務付ける法律が制定され、他の州に広がっている。
 韓国では今年9月、たびたび性犯罪を繰り返す受刑者の仮釈放後や出所後、居場所や行動を電波で24時間把握する「電子足輪」の運用が始まっている。装着期間は最大10年。
 日本の場合、性犯罪の中で強姦(ごうかん)の認知件数は2000年以降、2000件から2500件の間で推移。06年からは2000件を下回り、再犯率は傷害や詐欺などに比べ低いが、被害者が届けないために統計に表れないケースも多いとみられる。



「性犯罪」とくに子どもへのそれを「子どもへの性的虐待」という視点で論じたのが次の本。
子どもへの性的虐待 森田ゆり・著 岩波書店・刊 740+TAX円

1998年の調査によると、18才未満の女子の39.4%、男子の10%、13才未満の女子の15.6%、男子の5.7%が性的な被害を受けている。
 性的な虐待は実はたいへん頻繁におきている。しかし、多くは外傷が無いため第三者からは発見されにくく、被害者とその家族の多くは沈黙を守る。更に加害者が非常に近い肉親である場合も少なくない。だから表面化することが希なだけだ。
 こどもに性的虐待をしても「いたずら」として軽く扱い、pedophile(ペドファイル)を「小児性虐待偏執者」と訳さず「小児性愛者」と訳してしまう程度の感性しか無い国だから、止むを得ないことかも知れない。
 彼ら偏執者には「愛」や「性愛」のかけらはこれっぽちもないのにだ。
 アメリカでは1992年から2005年までの間に50%以上減少したという。予防教育の徹底、防止介入システムの強化、司法制度の充実が功を奏してきたからだという。
 本書は性的虐待がどれほど社会に深刻な影響を与えているかを解説すると共に、国、地方自治体、民間、個人レベルで何ができるか、今我が国が必要としている取り組みは何かを説いている。
 事態を改善し子どもたちを救うためには、まず事実を知ることが大切だ。事実を直視し少しずつでも良いから動きだすべきだろう。
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by taketombow | 2008-12-28 11:17 | ニースに接して  

「おつかれさまの国」 ・・・・「音楽」と「ことば」と「映像」のちから

 bookさんから
斉藤和義の「おつかれさんの国」という曲を教えていただいた。
とても良い曲だそうだ。でも、私は団塊の世代。
恥ずかしい限りだが、歌手なら小田和正、グループなら、ミスチルかGLAY止まりで、最近の歌手はとんと分からない。曲名は聞いたこともないし、この歌手の名前も知らない。
という訳で、まず歌詞をググってみた。

     略
                 ・・・・・・・・
そのひとの疲れに「お」をつけて「さま」までつけて
「おっかれさまです」と声かけるぼくらの日

やさしくて強くて一生懸命で
生きることはただそれだけでも 大変で
その愛も仕事も大切で 頭をさげて
「おつかれさまです」といいかわす ぼくらの日々

※つらいのはわかってる だけどわからないよ
誰だってそれぞれ 隠した切なさは
ほんとうはいえなく てだから いうのだろう
ありがとう 大丈夫です おつかれさまです※

泣きたくなることもあたりまえ 坂道は
もうなんども経験したから 慣れてきた
そのひとの涙は拾えない 見ちゃいけない
「おつかれさまです」と微笑んで ぼくらの旅

こころは強くない だけど弱くもない
             ・・・・・・・・・・・
      略

結構、言い歌詞だ。

次にYouTubeで探してみると、「あった!」
アリナミンのCMに流れていた曲だった。

斎藤正義の音楽と歌詞と映像が一つになって実に良い。


短いが私はこちらの方が好きだ。後半の出張帰りのお父さんを家族で迎える場面は何度見てもジーンとくる。


キリンラガーのこのCMも物語性があって良い。

これには一切ナレーションはない。音楽と映像だけでこれほどまでにも迫ってくるのが素晴らしい。
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by taketombow | 2008-12-25 22:44 | 雑感  

「貧困」と「格差」を考える その2

何処かの国の首相が、「とてつもない国」という本を書いている(難しい漢字でも特にルビが振ってあるわけではない)が、私たちの国は、いつの間にか、子ども達にとって「とんでもない国」になってしまっているのかも知れない。
 そんなことを感じながら、「貧困」と「格差」について、再び読み解いてみた。


子どもの貧困―日本の不公平を考える 阿部彩・著 岩波書店・刊 780+TAX円

「貧困」問題を「子ども」を中心にした視点で論ずる。
 貧困の指標としては、「相対的貧困」と「絶対的貧困」とが用いられる。そして絶対的貧困は主としてアフリカなどの後進国、相対的貧困は先進国で問題となる。本書で論ぜられているのは相対的貧困だ。OECDの最近の調査によると、我が国の貧困率はアメリカに次いで世界第2位だという。アメリカをお手本とした「構造改革」、「規制緩和」、「自己責任」という「小泉改革」で私たちが目指しそして得たものは、世界第2位の貧困率だった。
貧困の定義については、本書の第2章で述べられているOECDの定義をそのまま用い、手取りの世帯収入の中央値の50%のラインを「貧困」としている。貧困率はそれが全世帯に占める割合である。つまり、我が国は、世界で2番目に「貧困世帯」の占める割合が多い、富の偏在した国家だということだ。
 貧困はそれが子どもたちの現在だけでなく、将来をも規定する。すなわち、「貧困」の環境にある子ども達は「そうでない」子どもに較べ不利な立場にある。著者はこの事実を豊富なデータを示しながら実証的に説いていく。まず、進学就職に直結する「学力」、人格形成に影響する「子育て環境」、「健康」、「非行」、「虐待」「疎外感」等々と「貧困」とどのように相関関係にあるのかを、PISAの調査、苅谷剛彦氏の著書「階層化日本と教育危機」からの引用で説明している。
 興味深いのは、貧困対策として、生活保護、児童手当、扶養控除、就学援助等の施策がなされ、「富める階層」から「子育て階層」への所得移転がされ、ある程度は平準化されているはずなのだが、現実には所得移転の施策前と後では、後の方が「子育て階層」の貧困度が増しているということだ。
 著者の問いかける点は二つ。
・子どもの基本的な成長にかかわる医療、基本的衣食住、少なくとも義務教育、そしてほぼ普遍的になった高校教育(生活)のアクセスを、全ての子どもが享受すべきである。
・たとえ「完全な平等」を達成することが不可能だとしても、それを「いたしかたがない」と許容するのではなく、少しでも、僧でなくなる方向に向かうように努力する社会の姿勢が必要である。

 このような論には何時も「財源がない」との主張がある。しかし、優先度、必要度を論じ先の日本を見据えて何とか解決策を見いだしていくのが政治家の仕事だった筈だ。先が読めない、夢を語れない政治家は、その資格はない。


新・学歴社会がはじまる―分断される子どもたち 尾木直樹・著 青灯社・刊 1,800+TAX円

要は苅谷剛彦、福地誠、山田昌弘氏らの主張と同じ。
 学力格差が広がっていること、そしてそれが子どもの工夫や努力ではどうしようもない、家計や出自の違いによることが多いこと等が述べられている。
 自己責任、公正な競争社会と言われながら、生まれながらの格差によって、「公正な競争」のスタートラインにさえ立つことができない子どもたちが生まれつつあることに警鐘を鳴らす。
 富裕層は公立校から離脱し私立国立有名校へと進学し、公立校の荒廃に拍車をかける。学校選択制、公立一貫校の設置により、富裕層まで行かなくても、多少の経済的負担と目先の利く感覚を持った親は、僅かな負担増だけで「よりまし」な公立へと進学できる。
 家庭・地域社会の様々な困難を背負って地域校で学ぶ子ども達と、私立国立付属校や公立一貫校の子ども達とは、既にこの時点で差が出ているのだ。そしてそれは、数年後の学歴の差として表れ、就職就業の際の差となって現れる、生涯賃金の格差となる。それが、著者の言う「新・学歴社会」の始まりなのだ。
 本書ではその他に、素人によるピントのはずれた学力低下論争による学力格差の増大。不景気の度に起こる学力低下論争の背景など述べられており、それなりに興味深い。
 苅谷剛彦氏の述べる格差拡大の要因について、著者は批判的である。この部分だけは同意できない。また、家庭の経済状況と親子関係について、著者にはステレオタイプな傾向がある点もやや気に掛かる。


ルポ 貧困大国アメリカ 堤未果・著 岩波書店・刊 700+TAX円

 食料が足りず皆がお腹を空かしているとき、誰もが同じでどこにも食べるものがないなら、諦め我慢するしかない。これが後進国型の貧困(絶対的貧困)だ。
 高級レストランで柔らかいビーフステーキを腹一杯食べた後、食べ残しをペットにやろうとしたら、ペットさえも見向きもしない。その建物の外では、ホームレスが寒さに震えて、物乞いをしている。これが先進国型の貧困(相対的貧困)だ。

 我が国が「自己責任」「規制緩和」「競争原理」「自助努力」の導入によってお手本にしようとしているアメリカのもう一つの顔は「世界一の貧困大国」である。全世帯数の中に貧困世帯の占める割合が最も高い国。そして2位は我が国である。
 リーマンブラザーズの倒産によって顕在化し、瞬く間に世界中を不景気の真っ直中に突き落とした「サブプライムローン問題」は、アメリカの貧困層を更に下位層へと突き落とし、世界の投資家から巨額の資金を霧散させたマネーゲームの結末だったのだ。
 本書は、ヒスパニック系の貧困層に高利で住宅ローンを貸し付けたり、カードローンの支払いや、大学の学費ローンの支払いのために、兵役に就く大学生をスカウトする軍のリクルーターなどの貧困ビジネス。一度の入院で多額の借金を背負い込んでしまう医療制度、入院費の負担を軽減するための日帰り出産等低所得者層の置かれたの現状をレポートし、極端な民営化の果てに二極化が進んだアメリカの姿を浮き彫りにしている。
 これは決して他の国のことではない。明日の我が国のことなのだ。私たちは、このような未来を望む投票行動をしているのだ。


貧困の現場 東海林智・著 毎日新聞社・刊  1,500+TAX円

秋葉原無差別殺人事件が起きたとき、一部に派遣労働者の置かれた生活環境をその一因と見なす論調があった。
 しかし、それは「どんなことも無差別殺人を正当化できる理由にはなり得ない」という”正論”に押し流されるように消えていった。
 それら”正論”を述べた人たちの中でどれだけの人が、彼らの生活実態を熟知した上で批判論を展開していたのだろうか。
 本書は、彼ら派遣労働者を始め、ファーストフード、コンビニエンスストアの正社員店長等の名ばかり管理職、ホームレス、ネットカフェ難民達の生活に密着し聞き取ったドキュメントだ。
 「自己責任」社会と言いながら今の社会は自己で責任を取れるまでにさえもいかない社会なのだ。「就職氷河期」に卒業したばかりに、正規労働に就けず、自己啓発の機会もないまま派遣労働からホームレス生活に転落していく若者たち。「転落」したらまず這い上がることができない「すべり台社会」
 彼らの実情も知らず(知ろうともせず)に、軽々と批判し「自己責任」を論じてはいけないのだ。「明日は我が身」かも知れない時代に私たちは生きている。



教育と所得格差 インドネシアにおける貧困削減に向けて 本台進/新谷正彦・著 日本評論社・刊 6,200+TAX円

一昔、大学教育は、一握りの秀才か金持ちの子弟にだけに許されたものだった。そしてその多くはエリートとして、出世の階段を上っていった。努力して高等教育を受けさえすれば、将来が約束されたのだ。山田昌弘氏は自著「希望格差社会」の中でそれを「教育のパイプライン」と称した。しかし、それが旨く機能したのは、高度成長時代からバブル前までだった。大学をはじめとする高等教育が(一部では大学院の修士課程や博士課程さえも)大衆化するに従い、教育が必ずしも将来の地位、収入を約束するものではなくなってきている。しかし、教育(学歴)が無ければ現実は更に惨めだ。
 そのような我が国と較べ、農業国であり、絶対的貧困率の高いインドネシアはどうであろうか、貧困撲滅に「教育」はどのように機能するかを調べたのが本書だ。
結論は予想通り。
丁度、我が国で言えば、高度成長期以前という状況だ。
貧困の原因が、農村における労働力の過剰なので、農村においては、教育の経済効果は極めて低い。教育が農業の生産性を高めるために寄与する部分が少ないからだ。農家の子弟を教育し、都会の製造業やサービス業へ供給するのが有効なのだそうだが、そうすると、最後は日本の農業が辿ってきた道をインドネシアも辿ることになるのか?

※ このエントリーは書きかけ。当分の間、追記・修正があります。

「貧困」と「格差」に関連して今、机上にある本。(12月23日現在)

教育の3C時代―イギリスに学ぶ教養・キャリア・シティズンシップ教育 杉本厚夫/高乗秀明/水山光春・著 世界思想社・刊 2,000+TAX円
学力と階層 教育の綻びをどう修正するか 苅谷剛彦・著 朝日新聞出版・刊 1,800+TAX円
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by taketombow | 2008-12-23 23:25 | 私の本棚から  

師走のアサガオ(?)

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 訂正(2008.12.30) ある方に伺ったところ、これはアサガオではなくて宿根性アサガオの「オーシャンブルー」という品種だそうだ。花期は標準で7月~11月だから、この時期にまで咲いていることは、特に不思議でも何でもないとのことだ。分かってみると「なーんだ!」と言う気持ちだ。知らずに置きたかったな。
詳しくはここに オーシャンブルー

12月も半ばになったというのに、ご近所のお宅ではまだアサガオが咲いている。流石に花は次第に小さくなってはきている。陽当たりの良い南向きならまだしも、北向きのブロック塀でのことだ。
今年は何か変なのか、それとも毎年のことで、たまたま今年になって私が気付いただけかは分からない。
 でも、手袋、コートの季節にアサガオは似合わない。


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一方こちらは御在所岳山上の朝暘台付近、12月7日昼頃の様子だ。木々は樹氷に覆われ、辺りはすっかり冬の世界だった。
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by taketombow | 2008-12-15 00:33 | 雑感  

井上靖 「敦煌」

井上靖の作品の一つに「敦煌」という小説がある。
戦乱の世、11世紀のシルクロードで、敦煌の文化遺産を守ろうとした青年の活躍を描く歴史小説だ。

以前、西田敏行 (朱王礼)、佐藤浩市 (趙行徳)、中川安奈 (ツルピア)、新藤栄作 (段茂貞)、原田大二郎 (尉遅光)と言うキャストで映画化されたので記憶にある人もいるだろう。
 その後半に私の心に焼き付いて消えない部分がある。少々長いが、抜き書きして引用する。

**********************
 ・・・・・沙州(敦煌)は、西夏軍本隊の攻撃を間近に控え、混乱に陥っていた。

趨行徳は尉遅光と別れると、宿舎へ帰る気にもならなかったので、やがて灰となるであろう沙州の夜の街を歩いた。どの街筋も、避難しようとしている住民たちで混乱していた。
賂駝も通り、馬も通っていた。行徳がこれまで見て来た河西のいかなる街とも、沙州の街は異なっていた。道幅も広く、街路樹もきちんと植わっており、道の両側には古く堂々たる商舗が軒を並べていた。その商舗のどれもがいまは人の出入が激しく立ち騒いでいた。


 商舗街を離れて、住宅地区へはいると、土塀を廻らした大きい氏家が立ち並んでいる。ここの騒ぎもまた、商舗街のそれと変わらなかった。街中が大きな騒ぎでひっくり返ってはいたが、その騒擾にはやはり暗い影があった。時々、騒擾がふいに遠のき、一瞬、滅入るような寂蓼感が四辺を占める時があった。赤い月が出ていた。血を漠らしたような赤さの月である。


 行徳は寺のある一劃へはいって行った。朱王礼の部隊の宿舎になっている城内東部の寺より、ずっと大きい構えの寺ばかりある区域であった。どの寺も広い敷地の中に大きな同じような伽藍が並んでいる。さすがにこの一劃だけは静かであった。伽藍の中でもおそらく立ち退きのための騒ぎを起こしているに違いなかったが、それは往来まで届いて来なかった。

 行徳は幾つかの寺の前を通った。どの寺が何という名であるか知らなかったが、行徳は幾つ目かに眼についた一番大きな伽藍を持っている寺の境内へ足を踏み入れてみた。門をくぐって少し行くと、右手に大きな塔があった。赤い月はその塔の肩にかかっていた。境内の敷地には、塔を初め幾つかの伽藍の影が濃く砂地に捺されてあった。行徳はそうした幾つかの黒い影の上を踏んで、奥の方へ歩いて行ってみた。やがて、建物の一つから燈火が洩れているのを見た。余り辺りが静かなので、この寺の住人は既に城外へ脱け出したに違いない
と思った矢先だったので、燈火が洩れているのを見たのは意外だった。

 行徳はその燈火の方に近付いて行ってみた。低い階段を登ろうとして、そこが経蔵らしいことに気付いた。表戸が僅かに開かれている。内部には幾つかの燈火が点されているらしく、思ったより明るかった。

 室内を覗き込んだ行徳の眼に最初映ったものは、そこを一面に埋めている移しい経巻や反古類と、その中に居る一見して二十歳前後と思われる三人の青年僧たちの姿であった。三人の若者のうち二人は立って居り、一人は屈んでいた。彼等は行徳が覗いて居るのにも気付かず、自分たちの作業に夢中になっていた。

 行徳は初め彼等が何をしているか判らなかったが、そのうちに三人の僧が経巻を選り分ける仕事をしていることを知った。一つの経巻を手に取って、それに長く眼を当てていることもあれば、直ぐそれから眼を離して、他の経巻を取り上げる場合もあった。行徳は何となく見惚れるような気持ちで、三人の作業を見守っていたが、暫くしてから、

「一体、何をしているのか」

と声をかけた。三人の若い僧侶はぎょっとしたように、いっせいに行徳の方を見た。

「たれか」

一人が叫んだ。

「怪しい者ではない。一体、お前たちは何をしているのだ」

行徳は入口から一歩踏み入って言った。

「経巻を選り分けている」

同じ僧侶が答えた。

「より分けてどうするのだ」

「万一の時の用意をしているのだ。若し寺に火のかかるような時は選り分けたものだけ持って逃げる」

「火がかかるまでここに居るつもりか」

「勿論だ」

「避難はしないのか。避難命令が出ているだろう」

「幾ら避難命令が出ても、これだけの経巻を置いて逃げられると思うのか。他の考は知らないが、われわれは戦闘が始まってもこの経蔵の中に残っている」

「他の僧侶はどうした?」

「避難した。併し、そうした人たちのことはどうでもいい。われわれは自分たちの意志でやっているのだ」

「住職は?」

「寺をどうするか相談するために昨夜から王城へ行っている」

「どうして経巻を置いて避難できぬのか」

 行徳が訊くと、青年僧の顔には明らかにそれと判る軽蔑の色が現われた。今まで黙っていた一番若い僧が言った。

「自分たちの読んだ経巻の数は知れたものだ。読まないものがいっぱいある。まだ開けてさえ見ない経巻は無数にある。−俺たちは読みたいのだ」

 その言葉が急に行徳の躰全体に熱く滲み入って来た。そのために暫くの聞行徳は自分の躰全体が痒れているような気がした。曾て何年か前、自分はこれと同じ言葉を何回口から吐いたことだろうと思った。
行徳はすぐその経堂を出た。
・・・・・・
*********************************
         (井上靖 「敦煌」 新潮文庫版 より)

「俺たちは読みたいのだ」

この言葉が実に心地良く心に響く。
戦火に巻き込まれ自らも死ぬかも知れない。どんな貴重な経巻を読み新たな知識を得ても、死んでしまっては元も子もない。この考えも理に叶っており至極当然だ。
他方、明日にも戦火に巻き込まれ、命を落とすかも知れないし、経巻が消失してしまうかも知れない。開けてさえ見ないまま消失させるのも、それらを読みもしないまま自分が死んでいくのも口惜しい。消失や死が避けられないのだったら、少しでも多くの経巻に目を通しておきたい。
 この考え方も理解ができる。

「知」への強い欲求。これが「ヒト」を「人」たらしめる大きな力かも知れない。

私も、その寿命が尽きるまでに、何冊の素晴らしい本との出会いに恵まれるのだろうか。
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by taketombow | 2008-12-12 22:43 | 私の本棚から  

私の読書術

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「付箋読書法」と勝手に名付けている。

1 「おやっ」と思ったこと、「そうか」と感じたこと、「いいな」と思ったこと等々、とにかく気になったところには、付箋を付ける。何も考えないでただひたすら付箋を付けてページを繰る。
2 次は、その付箋のところだけを読み直す。
3 そして最後に、感想を文章化する。

新書程度なら、付箋に2時間、読み直しに30分、文章化に30分の合計3時間で私の読書は終わる。
 但し、文学作品は別だ。読むことそのものが楽しみなのでできる限り時間をかけ味わいながら読む。つい夢中になり、徹夜して読み上げてしまうことも、2ヶ月かかることも珍しくはない。
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by taketombow | 2008-12-05 21:23 | 私の本棚から  

「貧困」と「格差」を考える

 元厚生労働省事務次官襲撃事件をはじめとする焼け糞型犯罪、児童虐待、通り魔犯罪、不登校、引きこもり等々。
 我が国を覆う様々な問題の背後に「貧困」と「格差」の問題が見え隠れしている。年間生活費が日本円で数百円という極貧の国々と比べると、我が国は遙かに豊かだ。どこに「貧困」があるのか、問題にすべき「格差」とは一体何なのだろうか。貧困と格差をキーワードに、活字の森を彷徨ってみた。

子どもの最貧国・日本 山野良一・著 光文社・刊 820+TAX円
 子どもの虐待、いじめ、愛着障碍、発達障碍など憂慮すべき問題の奥に、大きく横たわっているのが「子どもの貧困」だ。勿論、低開発国における「貧困」とはその質は違うが、見えないところで子ども達の心身を、そして我が国の未来を確実に蝕んでいる。
 「経済合理性」「自己責任」の名の下に、貧困の中で育ち、「希望を持つこと」「努力すること」すら教えられてこなかった子ども達は、学校教育の極めて早い段階から逸脱し、将来の貧困層の予備軍となっていく。
 本書はその指摘だけで終わっていないところにその真価がある。
 子ども達の抱える様々な問題、将来にその子達が惹起するであろう様々な問題を社会が負担するコストととしてシシミュレートした結果も興味深い。
子ども時代に1年間貧困に晒されただけで、その子どもの将来受け取る生涯賃金が150万減少してしまうのだ。様々な子育て支援、生活保護等の必要性を経済合理性の麺から説いている点が新しい。
 しかし、生活保護費の方が、まともに働いて得られる賃金よりも遙かに多い現実は、彼らを「保護難民」という坩堝に陥れてしまわないだろうか。
「まともに働いてそれ相応の賃金を得る。」
「努力すれば明日に明るい希望がもてる。」
そのような世の中が再び現れるのは、何時の日なのだろうか。
 今、私たちは何を考え、どのような行動をすべきなのかが問われている。


置き去り社会の孤独 大津和夫・著 日本評論社・刊 1,800+TAX円
社会の大勢がニート、フリーターを「本人の問題」「自己責任」と捉えている間は、何を言っても無駄だろう。
 もちろん、そのような若者もいる。しかし、大多数が政治の貧困、無策から、あの就職氷河期に直面し、正社員、正規雇用に就くことができず、必要なスキルアップもできないまま、30才台になってしまったのだ。
 彼らの将来はどうなっていくのだろうか。「自己責任」と突き放すだけで本当によいのだろうか。
筆者はその点を強く突いてくる。これらの若者がみすみすタックスイーターに堕ちていくのを座視していて良いのだろうか。タックスイーターをタックスペイヤーに変える工夫はない物なのだろうか。諸外国では既にその努力を始めているという。
将来に絶望し、望みを失った彼らが「社会の火薬庫」とならない保証はあるのだろうか。


生活保護が危ない?最後のセーフティーネットはいま?  産経新聞大阪社会部・編 扶桑社・刊
 760+TAX円

 日本の生活保護の給付内容、給付基準の低さは世界の中でもトップクラスのものだそうだ。そして、その補足率の低さも世界のトップクラスだそうだ。
 つまり、誰にでも受けられるように受給資格を下げ、内容も豊かにしているが、現実にはなかなか受給申請ができない。それが我が国の生活保護なのだ。
 現在のままで、有資格者が全員受給すれば、財政は直ちにパンクするのは当然だが、ハードルを下げても、有資格者の大部分が受給するようになったら、財政的に相当苦しい。
 また、派遣等の非正規雇用の労働者が増え、平均年収が大幅に低下した結果、
「まともに働いているよりも、生活保護で働かない方が収入が多い」
 という現象も現れている。
 生活保護の世代連鎖は、貧困の世代連鎖となって日本の活力を確実に蝕んでいく。
 生活保護について考えさせられる本だ。
不正受給で不当な利益を得る人がいるのも現実、受けられる資格があるのに申請さえもして貰えないで、或いは支給を打ち切られて、餓死する人がいるのも現実だ。
 制度を根底から見直す時が来ている。


新平等社会―「希望格差」を超えて 山田昌弘・著 文藝春秋・刊 1,500+TAX円
「社会を変えなくっちゃ!」と改めて思った本。
児童虐待も、母子心中も、理不尽な殺人の増加もみな、格差社会が生み出したもの。現象としての格差が問題なのではない。貸本主義の自由主義経済社会に生活しているのだから、格差は当然であるし、むしろある意味では望ましいことですらある。努力した者が報われて、怠けものが痛い目に遭う。これは当然なことだ。
 しかし、努力しても報われない。将来を指し示す希望さえも持てないとしたら、これは問題である。
 山田氏は前著でこれを「希望格差社会」と言った。
子育ては大きな「負債」を背負い込むことであり、生活リスクである。でも、何時までもこのままにしておいて良いのだろうか。将来への見通しも何もない若年世帯が子どもを生み破綻した家庭を作り、貧困を再生産させる一方で、リスクを避けるカップルは非婚、子無しを選択し自分たちだけの楽しみを最優先させる。
このような日本であって本当に良いのだろうか。
著者の提言は決して不可能なことではない。実行に移すのは誰なのか。自分たちの選挙での一票にその思いを込めるしかないのだが。


不平等が健康を損なう 
イチロー カワチ/ブルース・P. ケネディ・著 西信雄/中山健夫/高尾総司/社会疫学研究会・訳 日本評論社・刊 2,400+TAX円

ある意味では、分かり切ったこと、自明のことを書いているのだが・・。
 経済的不安は健康を損なう。
それは医者にかかる金がないとか、医者のかかる金すら惜しむという意味からではない。将来の不安、経済的な不安が、精神的な病を増進するという意味でだ。興味深いのは、社会的ネットワークの大小と風邪の罹患率とがリンクすると言うことだ。身近に相談できる人、頼りになる人がいるといないとでは、かくまで違うのだ。そして、それは経済的な状況ともリンクする。
 経済格差を少なくする施策が望まれる所以である。
また、経済的な困窮がそのまま健康にリンクするわけではないことも興味深い事実である。関係があるのは自分と周囲との格差、すなわち、絶対的な貧困ではなく相対的な貧困がより影響するのだ。 
「第7章 消費による社会へのつけ 要塞町の登場」で 筆者は、裕福に人たちが犯罪から自分たちを守るために自費で治安を守ろうとする動きを批判している。確かに庶民の立場から歓迎するものではないが、行政の足りない部分を自費で補う動きは仕方のないことだろうと思う。自分の限られたリソースを「娯楽」に使うか「安全」に使うかは個人に委ねられるべきで、「安全」に使ったからと言って責められるべきものではない。


反貧困―「すべり台社会」からの脱出 湯浅誠・著 岩波書店・刊 740+TAX円
「すべり台社会」とは、ピッタリの表現だ。
私は「有給休暇」を完全消化したことがない。権利だから行使できるはずだが、職場の状況はそれを躊躇させる。「有給休暇」を行使しないことが美徳のような雰囲気さえあるのが日本の多くの職場の実態だろう。
 「生活保護」や「就学援助」の制度にもそのような傾向が見られる。制度があり該当する人が多くいるのにもかかわらず、それを利用しないようにあの手この手で圧力をかける。
 著者はその点を突いている。何がそうさせているのかと、更に窓口での強制に近い「指導」。意思に反し「生活保護」を返上して自殺したり、餓死したりした事例の背後にあるものは何だろうかと。
 「義務教育」という制度があり、もし就学率が20パーセント台だったら、文部科学省や出先の教育委員会、学校は褒められるのだろうか。
 「生活保護」という制度があり、その適用対象者が数多くいるのに、申請しないようにあの手この手で細工する。そして、実数が少なくなるように努力する。その結果、厚生労働省や社会福祉事務所は褒められるのか。叱責されるのか。
 私たちは、真に困っている人々に優しく手を差し伸べる社会を作ろうとしているのか。それとも、救いを求める手を、振りほどき蹴落とし、嘲笑する社会を作ろうとしているのかどちらだろうか。


子どもの貧困―子ども時代のしあわせ平等のために 浅井春夫/湯澤直美/松本伊智朗・編 明石書店・刊 2,300+TAX円 
マスコミが騒ぎ立てる少年犯罪の急増、凶悪化(警察庁のデータからはそうとばかりには読み取れないのだが)で、少年法が改正され我が国は厳罰化の道を辿ることになった。
 これによって少年犯罪は減るだろうか、少年たちは罰が恐ろしくて、非行を止め、暴走族を解散するだろうか。
 これらの根底には恵まれない家庭環境、それを助長する「貧困」の問題が横たわっている。これらの子どもたちが格差の再生産をしないようにするためにも、社会防衛のためにも、思い切った貧困対策、貧困階層からの脱却支援策が求められている。
 「自己責任」という名の政治の責任放棄、弱者の切り捨ては確実に日本の将来を蝕んでいく。
著者の一人は、子ども時代の"飛び級はいけない"という。学校の飛び級ではない。今は高校進学を選択する生徒が殆どを占める時代。経済的な理由で、高校へ行かないことは、「子どもの時代」を"飛び級"してしまうことだと。高校は、教科の学習をすると共に、友だちとの関わり方、クラブ活動等を通して、社会へ出て行くためのスキルも学ぶところでもある。その段階を"飛び級"してしまうことは、人間形成のためにハンディを負うことになると言うのだ。
 また、学力テストでの入学選抜は一見公平なように見えるが、そもそも、貧困で学習の価値に否定的な親のもとで育った子どもたちに、まともな学力が育つはずもなく、そのことを考慮しない選抜は、その段階で既に不公平を内包している。
 親の生活態度、人生への見方に、子どもには何ら責任はない。しかし、彼らの人生はその親に規定されてしまい、貧困の再生産、格差の再生産を生みだし、次第に社会を蝕む。
 刹那的な犯罪を防ぐためにも、所得の再分配の仕組みは考えていかなければならないだろう。
 心の片隅に若干の違和感は残るが。



教育格差が日本を没落させる 福地誠・著 洋泉社・刊 760+TAX円
題名や扱う内容の深刻さと対照的に、読み易い本だ。
編集、文体が良いのか。それとも、作者の才能か。電車やバスの中でパラパラと目を通して損はしない。
 そして、現代教育の直面する問題を概括してほしい。その種の本としてお勧めの本だ。
著者の教育に関する本としては2冊目。
題名に前作ほどのインパクトはない。(前作の題名は余りにも挑発的だったという点もあるが)
 当時とは異なり「教育格差」という問題に社会が慣れて(鈍感に?諦めて?)しまったということもあるだろう。
次の5つの章立てで、論を展開する。
1 拡大する教育格差
2 「平等」を捨てた公教育
3 抜け出せない階層の連鎖
4 カネで学力を買う時代
5 教育に投資せず日本に未来はあるか
著者のもう一つの顔は、東大教育学部出身の麻雀ライター。
我々の思いも付かない様な方面までコネクションがある。その豊富な人脈を駆使したインタビューやエピソードの引用も興味深い。
今のままでは「教育格差」は進むばかりだ。
 熱心な親にとっては、自分がそれなりの教育投資をしているので親の姿勢による「格差」は許せるが、住む地域による「格差」は許せない。それを克服するために「私学」や「公立一貫校」へ行くという新たな格差が生じる。そして、「教育に熱心な」「ある程度生活にゆとりのある」家庭が殆ど抜けた地域の学校は・・・・。
 公教育が「平等」を捨てたとき、子ども達の受けられる教育は「家庭」によって決まってしまう。そのような社会は急速に活力を失う。 と、筆者は指摘する。
 カエルの子はカエル、ミジンコの子はミジンコではなくて、醜いアヒルの子が白鳥になるような社会でないと未来はないのだと。
 そのような問題を少しでも改善しようと、東京都が経済的に苦しい家庭へ塾代を支援する制度を始めた。ところが意外にも申込は極めて低調だった。そのような家庭の多くは、その興味さえないのだ。
そして、格差は再生産されていく。
 働き蜂と女王蜂とには資質に大きな違いはない。違うのは環境で、特別に保護されロイヤルゼリーを与えられ続けた蜂だけが女王蜂になる。
 今の日本は、ロイヤルゼリーを与えられる家庭からしか、エリートはでなくなっている。
これも筆者の言葉だ。
言い古された表現だが、要は「親の姿勢」なのだ。親の考え方、振る舞い方で子どもの将来は決まる。
 そうすべき、そうしたいと思っていても、経済的、社会的な理由で、「そうあるべき親」になり切れない人がいるのも現実なのだ。もちろん、「そうあるべきだ」ということすら知らない無関心な親も。
 これら解決するのは「政策」しかないのだが、与党きっての「文教族」だという元文科大臣(ラサール→東大法学部→大蔵省主計局→代議士)であのていたらく(失言・放言・妄言での更迭)だ。我々はどこにこの救いを求めたらよいのだろうか。
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by taketombow | 2008-12-01 23:28 | 私の本棚から  

御在所岳裏道 仮復旧

御在所岳裏道が仮復旧しているというので歩いてみた。

御在所岳の「裏道」登山道は、数あるコースの中で、最も傾斜が緩やかで岩場、ガレ場、ザレ場の少ないコースだった。樹木の間を歩く部分が多いため、酷暑、強風、雨天等天候が悪化したときにも、木々がそれを遮ってくれて比較的安全なエスケープルートとしての価値もあった。
 積雪期はいち早くトレースが付き、冬期はここがメインルートになっていた。

厳冬期の風が強いとき、中道はキレット付近とその上部の岩場のトラヴァースが通過に神経を使う。だから、私の下山路は専ら一の谷新道だった。だが、大雪で一の谷新道にトレースがないときは裏道を使った。

この冬、積雪期に御在所を歩くなら、裏道を無雪期に歩きルートを頭に叩き込んでおく必要がある。

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藤内小屋上部付近 かつて「天狗の踊り場」が有った辺り
ゴロゴロとした岩の間を縫うように、仮登山道が造られている。

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川原の岩にはこのように赤ペンキでルートの目印が付いている。



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兎の耳は辛うじて残ったものの、周辺はこの有様だ。

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2年前と比べるとその変容が分かる。

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兎の耳の直ぐ上流で仮設の木梯子を登り左岸へ移る。

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6合目から7合目の間。このような場所もある。この部分はまだ、登山道が安定していない。雨天、積雪期は十分な注意が必要だ。

7合目以上は、全く変化無し。昔の裏道登山道が楽しめる。

 意外に思ったのは、「裏道登山道は崩壊した」という事が伝わったためか、ベテラン、熟達者らしい姿は余り見えなかった。却って、初心者らしき方々らしきパーティーが結構多く歩いていたのが気になった。

 もう山頂部は冬。先日降ったらしき雪と霜柱が残っていた。
 標高は僅か1000メートルと少しの山だが、木綿の軍手と、運動靴で登る山ではない。

「みんなで登れば怖くない」の発想なのか。
それとも、被害にあったことすら知らないまま来たのだろうか。
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by taketombow | 2008-12-01 00:24 | 私の山歩き