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「貧困」と「格差」を考える

 元厚生労働省事務次官襲撃事件をはじめとする焼け糞型犯罪、児童虐待、通り魔犯罪、不登校、引きこもり等々。
 我が国を覆う様々な問題の背後に「貧困」と「格差」の問題が見え隠れしている。年間生活費が日本円で数百円という極貧の国々と比べると、我が国は遙かに豊かだ。どこに「貧困」があるのか、問題にすべき「格差」とは一体何なのだろうか。貧困と格差をキーワードに、活字の森を彷徨ってみた。

子どもの最貧国・日本 山野良一・著 光文社・刊 820+TAX円
 子どもの虐待、いじめ、愛着障碍、発達障碍など憂慮すべき問題の奥に、大きく横たわっているのが「子どもの貧困」だ。勿論、低開発国における「貧困」とはその質は違うが、見えないところで子ども達の心身を、そして我が国の未来を確実に蝕んでいる。
 「経済合理性」「自己責任」の名の下に、貧困の中で育ち、「希望を持つこと」「努力すること」すら教えられてこなかった子ども達は、学校教育の極めて早い段階から逸脱し、将来の貧困層の予備軍となっていく。
 本書はその指摘だけで終わっていないところにその真価がある。
 子ども達の抱える様々な問題、将来にその子達が惹起するであろう様々な問題を社会が負担するコストととしてシシミュレートした結果も興味深い。
子ども時代に1年間貧困に晒されただけで、その子どもの将来受け取る生涯賃金が150万減少してしまうのだ。様々な子育て支援、生活保護等の必要性を経済合理性の麺から説いている点が新しい。
 しかし、生活保護費の方が、まともに働いて得られる賃金よりも遙かに多い現実は、彼らを「保護難民」という坩堝に陥れてしまわないだろうか。
「まともに働いてそれ相応の賃金を得る。」
「努力すれば明日に明るい希望がもてる。」
そのような世の中が再び現れるのは、何時の日なのだろうか。
 今、私たちは何を考え、どのような行動をすべきなのかが問われている。


置き去り社会の孤独 大津和夫・著 日本評論社・刊 1,800+TAX円
社会の大勢がニート、フリーターを「本人の問題」「自己責任」と捉えている間は、何を言っても無駄だろう。
 もちろん、そのような若者もいる。しかし、大多数が政治の貧困、無策から、あの就職氷河期に直面し、正社員、正規雇用に就くことができず、必要なスキルアップもできないまま、30才台になってしまったのだ。
 彼らの将来はどうなっていくのだろうか。「自己責任」と突き放すだけで本当によいのだろうか。
筆者はその点を強く突いてくる。これらの若者がみすみすタックスイーターに堕ちていくのを座視していて良いのだろうか。タックスイーターをタックスペイヤーに変える工夫はない物なのだろうか。諸外国では既にその努力を始めているという。
将来に絶望し、望みを失った彼らが「社会の火薬庫」とならない保証はあるのだろうか。


生活保護が危ない?最後のセーフティーネットはいま?  産経新聞大阪社会部・編 扶桑社・刊
 760+TAX円

 日本の生活保護の給付内容、給付基準の低さは世界の中でもトップクラスのものだそうだ。そして、その補足率の低さも世界のトップクラスだそうだ。
 つまり、誰にでも受けられるように受給資格を下げ、内容も豊かにしているが、現実にはなかなか受給申請ができない。それが我が国の生活保護なのだ。
 現在のままで、有資格者が全員受給すれば、財政は直ちにパンクするのは当然だが、ハードルを下げても、有資格者の大部分が受給するようになったら、財政的に相当苦しい。
 また、派遣等の非正規雇用の労働者が増え、平均年収が大幅に低下した結果、
「まともに働いているよりも、生活保護で働かない方が収入が多い」
 という現象も現れている。
 生活保護の世代連鎖は、貧困の世代連鎖となって日本の活力を確実に蝕んでいく。
 生活保護について考えさせられる本だ。
不正受給で不当な利益を得る人がいるのも現実、受けられる資格があるのに申請さえもして貰えないで、或いは支給を打ち切られて、餓死する人がいるのも現実だ。
 制度を根底から見直す時が来ている。


新平等社会―「希望格差」を超えて 山田昌弘・著 文藝春秋・刊 1,500+TAX円
「社会を変えなくっちゃ!」と改めて思った本。
児童虐待も、母子心中も、理不尽な殺人の増加もみな、格差社会が生み出したもの。現象としての格差が問題なのではない。貸本主義の自由主義経済社会に生活しているのだから、格差は当然であるし、むしろある意味では望ましいことですらある。努力した者が報われて、怠けものが痛い目に遭う。これは当然なことだ。
 しかし、努力しても報われない。将来を指し示す希望さえも持てないとしたら、これは問題である。
 山田氏は前著でこれを「希望格差社会」と言った。
子育ては大きな「負債」を背負い込むことであり、生活リスクである。でも、何時までもこのままにしておいて良いのだろうか。将来への見通しも何もない若年世帯が子どもを生み破綻した家庭を作り、貧困を再生産させる一方で、リスクを避けるカップルは非婚、子無しを選択し自分たちだけの楽しみを最優先させる。
このような日本であって本当に良いのだろうか。
著者の提言は決して不可能なことではない。実行に移すのは誰なのか。自分たちの選挙での一票にその思いを込めるしかないのだが。


不平等が健康を損なう 
イチロー カワチ/ブルース・P. ケネディ・著 西信雄/中山健夫/高尾総司/社会疫学研究会・訳 日本評論社・刊 2,400+TAX円

ある意味では、分かり切ったこと、自明のことを書いているのだが・・。
 経済的不安は健康を損なう。
それは医者にかかる金がないとか、医者のかかる金すら惜しむという意味からではない。将来の不安、経済的な不安が、精神的な病を増進するという意味でだ。興味深いのは、社会的ネットワークの大小と風邪の罹患率とがリンクすると言うことだ。身近に相談できる人、頼りになる人がいるといないとでは、かくまで違うのだ。そして、それは経済的な状況ともリンクする。
 経済格差を少なくする施策が望まれる所以である。
また、経済的な困窮がそのまま健康にリンクするわけではないことも興味深い事実である。関係があるのは自分と周囲との格差、すなわち、絶対的な貧困ではなく相対的な貧困がより影響するのだ。 
「第7章 消費による社会へのつけ 要塞町の登場」で 筆者は、裕福に人たちが犯罪から自分たちを守るために自費で治安を守ろうとする動きを批判している。確かに庶民の立場から歓迎するものではないが、行政の足りない部分を自費で補う動きは仕方のないことだろうと思う。自分の限られたリソースを「娯楽」に使うか「安全」に使うかは個人に委ねられるべきで、「安全」に使ったからと言って責められるべきものではない。


反貧困―「すべり台社会」からの脱出 湯浅誠・著 岩波書店・刊 740+TAX円
「すべり台社会」とは、ピッタリの表現だ。
私は「有給休暇」を完全消化したことがない。権利だから行使できるはずだが、職場の状況はそれを躊躇させる。「有給休暇」を行使しないことが美徳のような雰囲気さえあるのが日本の多くの職場の実態だろう。
 「生活保護」や「就学援助」の制度にもそのような傾向が見られる。制度があり該当する人が多くいるのにもかかわらず、それを利用しないようにあの手この手で圧力をかける。
 著者はその点を突いている。何がそうさせているのかと、更に窓口での強制に近い「指導」。意思に反し「生活保護」を返上して自殺したり、餓死したりした事例の背後にあるものは何だろうかと。
 「義務教育」という制度があり、もし就学率が20パーセント台だったら、文部科学省や出先の教育委員会、学校は褒められるのだろうか。
 「生活保護」という制度があり、その適用対象者が数多くいるのに、申請しないようにあの手この手で細工する。そして、実数が少なくなるように努力する。その結果、厚生労働省や社会福祉事務所は褒められるのか。叱責されるのか。
 私たちは、真に困っている人々に優しく手を差し伸べる社会を作ろうとしているのか。それとも、救いを求める手を、振りほどき蹴落とし、嘲笑する社会を作ろうとしているのかどちらだろうか。


子どもの貧困―子ども時代のしあわせ平等のために 浅井春夫/湯澤直美/松本伊智朗・編 明石書店・刊 2,300+TAX円 
マスコミが騒ぎ立てる少年犯罪の急増、凶悪化(警察庁のデータからはそうとばかりには読み取れないのだが)で、少年法が改正され我が国は厳罰化の道を辿ることになった。
 これによって少年犯罪は減るだろうか、少年たちは罰が恐ろしくて、非行を止め、暴走族を解散するだろうか。
 これらの根底には恵まれない家庭環境、それを助長する「貧困」の問題が横たわっている。これらの子どもたちが格差の再生産をしないようにするためにも、社会防衛のためにも、思い切った貧困対策、貧困階層からの脱却支援策が求められている。
 「自己責任」という名の政治の責任放棄、弱者の切り捨ては確実に日本の将来を蝕んでいく。
著者の一人は、子ども時代の"飛び級はいけない"という。学校の飛び級ではない。今は高校進学を選択する生徒が殆どを占める時代。経済的な理由で、高校へ行かないことは、「子どもの時代」を"飛び級"してしまうことだと。高校は、教科の学習をすると共に、友だちとの関わり方、クラブ活動等を通して、社会へ出て行くためのスキルも学ぶところでもある。その段階を"飛び級"してしまうことは、人間形成のためにハンディを負うことになると言うのだ。
 また、学力テストでの入学選抜は一見公平なように見えるが、そもそも、貧困で学習の価値に否定的な親のもとで育った子どもたちに、まともな学力が育つはずもなく、そのことを考慮しない選抜は、その段階で既に不公平を内包している。
 親の生活態度、人生への見方に、子どもには何ら責任はない。しかし、彼らの人生はその親に規定されてしまい、貧困の再生産、格差の再生産を生みだし、次第に社会を蝕む。
 刹那的な犯罪を防ぐためにも、所得の再分配の仕組みは考えていかなければならないだろう。
 心の片隅に若干の違和感は残るが。



教育格差が日本を没落させる 福地誠・著 洋泉社・刊 760+TAX円
題名や扱う内容の深刻さと対照的に、読み易い本だ。
編集、文体が良いのか。それとも、作者の才能か。電車やバスの中でパラパラと目を通して損はしない。
 そして、現代教育の直面する問題を概括してほしい。その種の本としてお勧めの本だ。
著者の教育に関する本としては2冊目。
題名に前作ほどのインパクトはない。(前作の題名は余りにも挑発的だったという点もあるが)
 当時とは異なり「教育格差」という問題に社会が慣れて(鈍感に?諦めて?)しまったということもあるだろう。
次の5つの章立てで、論を展開する。
1 拡大する教育格差
2 「平等」を捨てた公教育
3 抜け出せない階層の連鎖
4 カネで学力を買う時代
5 教育に投資せず日本に未来はあるか
著者のもう一つの顔は、東大教育学部出身の麻雀ライター。
我々の思いも付かない様な方面までコネクションがある。その豊富な人脈を駆使したインタビューやエピソードの引用も興味深い。
今のままでは「教育格差」は進むばかりだ。
 熱心な親にとっては、自分がそれなりの教育投資をしているので親の姿勢による「格差」は許せるが、住む地域による「格差」は許せない。それを克服するために「私学」や「公立一貫校」へ行くという新たな格差が生じる。そして、「教育に熱心な」「ある程度生活にゆとりのある」家庭が殆ど抜けた地域の学校は・・・・。
 公教育が「平等」を捨てたとき、子ども達の受けられる教育は「家庭」によって決まってしまう。そのような社会は急速に活力を失う。 と、筆者は指摘する。
 カエルの子はカエル、ミジンコの子はミジンコではなくて、醜いアヒルの子が白鳥になるような社会でないと未来はないのだと。
 そのような問題を少しでも改善しようと、東京都が経済的に苦しい家庭へ塾代を支援する制度を始めた。ところが意外にも申込は極めて低調だった。そのような家庭の多くは、その興味さえないのだ。
そして、格差は再生産されていく。
 働き蜂と女王蜂とには資質に大きな違いはない。違うのは環境で、特別に保護されロイヤルゼリーを与えられ続けた蜂だけが女王蜂になる。
 今の日本は、ロイヤルゼリーを与えられる家庭からしか、エリートはでなくなっている。
これも筆者の言葉だ。
言い古された表現だが、要は「親の姿勢」なのだ。親の考え方、振る舞い方で子どもの将来は決まる。
 そうすべき、そうしたいと思っていても、経済的、社会的な理由で、「そうあるべき親」になり切れない人がいるのも現実なのだ。もちろん、「そうあるべきだ」ということすら知らない無関心な親も。
 これら解決するのは「政策」しかないのだが、与党きっての「文教族」だという元文科大臣(ラサール→東大法学部→大蔵省主計局→代議士)であのていたらく(失言・放言・妄言での更迭)だ。我々はどこにこの救いを求めたらよいのだろうか。

by taketombow | 2008-12-01 23:28 | 私の本棚から  

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